2014年12月11日木曜日

諸行無常スケート魂

冬だ。夜歩いていると足首が痛む。冬は最近、いつもこうだ。昔に何度も捻挫したせいで靭帯がおかしなことになってるんだろう。寝る時も気になって寝付けない位に痛い。一番痛むところに細〜い針をさしてその神経をツンと突いてみたい、もしくはその針二本に電極を繋いで一つは痛い側、もう一つの針を反対の踝側にさし結構高圧な電流を流してみたい。何か気持ちいい様な気がする。
蓄積。という言葉の意味がこの痛みの中にあるようだ。主な原因は13歳から始めたスケートボードにある、捻挫を繰り返したのはそれのせいだし、その度に完治しないまま、またスケートボードに乗り痛い足を庇いながらまた怪我をする。よせばいいのにまた我慢出来ずにスケートボードに乗る。一度、母に、いつまでそんなことを続けるのですか?体が資本の貴方は怪我をしたら生活が出来ませんよ。というような事を言われて、僕はこう言った。コレが僕自身であります母様、怪我をする事には極力気を付けますが、スケートボードに乗らない僕は、母様の知っている僕ではありません。従ってコレだけは辞められないのであります。
この事を想うに、この痛みの中に見出した蓄積というのは即ち、僕自身の特性であり、僕は足首に長年スケートボードに乗る事で蓄積した痛みの持ち主であるという事が僕が僕である所以の一つである。大ケガもする、骨も折るし歯も欠けるし靴はすぐにだめになるしTシャツも破ける。普通、人はこんな事に対して繰り返し挑むだろうか?でも、それでもやりたい、その障害にぶつかることでさらなる進化を得られるとスケートボードを長年続けている人は本気で思い込んでいる。スケボーの事だけを言ってるんじゃない。何か夢中になる事は全部そうだ。無から有になり(生を受けること)有から無に向かう(生き、死ぬこと)その間に必死にもがき障害(困難、乗り越えたいという概念)に自分をぶつけ、ぶつける事で無駄を削り、より動きやすく、自分が自分らしく、自我が形成されて行く、死ぬまでそうして生きて行くことが人にとっての使命なのだと思う。だから生きるスピード(時間的な観念のスピードでは無く)を上げて色んな障害に体当たりして自らを削り行く人はそれ故に無駄がどんどんそぎ落とされ続けてピカピカに輝いて見えるし、迷うこともない。空を得ることが出来る。いずれ無になる(肉体もなくなる)事に意味は無い、と言うよりもそのことにかまけて生きているつもりは無い。よって有(肉体を持つこと)も意味がない、というよりも考える術もなくこの世にあったのだから。僕の場合はスケートボードにしろ絵を描く事にしろ、物を作り出すという事において身を削り行く事を自分なりに実践するのだ。いずれ形は無くなる。
諸行無常。
それでも研ぎ澄まされた魂は有無関係なく、絶対だ。
まだ足りない、なるべく全部持ってスピードをあげてぶつかる。
しかしそれにしても、今日はいつもより足首が痛む。
ジンジンする。冬だ。冬なんだな。

2014年12月2日火曜日

不思議な体験は不思議なタイミングでやってくる

連日の夜勤仕事のせいで体が鉛のようだ。たまの休日くらい、酒でも飲まなければやってられない。不思議な体験は不思議なタイミングでやってくるもので、昨日、10尺の脚立の上で何か呼ばれたような気がして振り向くと神にあった、神は凄まじい光を放っていてこちらの思考を瞬時に停止させる。脚立の上で左手に塗料、右手にハケを持ったままボー然と神秘体験する私に現場にいた労働者達は気づくはずもなく、引き渡し前の慌しさに皆気が立っている。何故、此処にこんな光があって、何故私はそれを神と理解したのだろうか?光に当てられた目に映るのは強烈な白で、その中に蠢くグロテスクな一層明るい白があった。畏怖を感じた、自分の無力さを感じて恐ろしいような、全て身を任せて甘えたくなるような体験だった。10尺の脚立の上で、ふと我に帰った私の目の前には、先ほど前髪白メッシュのヤンキーっぽい電気工事屋の兄ちゃんがあーだこーだと文句を言いながら取り付けていた新品のスポットライトがこっちを照らしている。ふう、疲れがかなりきてる。でも、さっきのアレは、確かに神だろ。不思議な体験は不思議なタイミングでやってくる。だから不思議だ。

まだ寝付けないから、空(くう)について、考えてみる。
龍樹の教えについて今勉強中だ。